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【寄稿】新型コロナウイルスパンデミック:奇禍から奇貨へ


掲載日2020.5.11

東京慈恵会医科大学・臨床検査医学講座講師 越智 小枝 氏

2011年に起きた福島第一原子力発電所(原発)事故の後、目に見えない放射線に対する恐怖が大きな社会混乱を引き起こし、放射線による直接被害以上の健康被害をもたらしたことは我々の記憶に新しい。今般の新型コロナウイルスパンデミックもまた、目に見えないウイルスへの恐怖が社会全体に重大な影響を及ぼしつつある。


「目に見えないハザード」による社会混乱が短期間に繰り返されたにも関わらず、先の原子力災害の学びがパンデミックに活かされる兆しは見られない。そこには「専門性」に振り回され、知恵の共有を怠ってきた現在の、科学主義の大きな弊害があると考えている。


被災地の健康被害の類似性


緊急事態の際、人はついその事象の特殊性に注目しがちである。先の原発事故の後にも、
「人災と自然災害は違う」
「放射線は目に見えないから他の災害と違う」
と、原子力災害を特別視する声は高かった。


もちろん災害の様相は1つ1つ異なるし、防災の為に災害特性を知ることは必要だ。しかし、大災害後の健康被害という視点から見れば、異なる災害間で驚くほど似通った問題が発生していることが分かる。たとえば原発事故の後、被ばくへの恐怖から流通や社会活動が停止し、精神疾患、子どもの心身発達の問題、高齢者の廃用症候群(過度の安静や活動の低下により起こる、さまざまな心身の機能低下)などの広範な二次健康被害が発生した。同様の健康被害は同様に流通・社会活動が停止する紛争地域やエボラ出血熱流行地などでも報告されている。


今回のパンデミックでも、外出や社会活動の自粛が長期化してきている。もし過剰な自粛が更に続けば、これまでの災害と同様の健康被害が生じ得るだろう。


放射線災害においては、過度な回避が人々の生活を破壊せぬよう
「As low as reasonably achievable(ALARA:実現可能な範囲においてできる限り)」
という放射線防護の原則が確立している。感染症においてもそれを回避することによるリスクトレードオフが生じることを考えれば、今般のパンデミックにおいてもALARAの法則に倣うことが望ましいのではないか、というのが私の意見だ。


パンデミックは特殊事態か


このような議論をすると
「ウイルスは増殖するし、人にも迷惑を掛け得るのだから放射線防護と一緒にすべきでない」
という反論も上がる。これはワクチン接種のリスクにおいてもしばしば聞かれる議論だ。では他害リスクは感染症だけの特殊な問題なのだろうか。


我々は交通事故という他害リスクを知りつつ車を運転し、間接喫煙のリスクや飲酒による暴力のリスクを容認している。また不安・抑うつや肥満などは、周囲の者へ伝播し、負の影響を与え得るリスクである。そう考えれば、感染リスクは他リスクと量的な違いはあれ、本質的に全く異なるとは言えないことが分かるだろう。


私が屁理屈のようにリスクや災害の共通性を強調するわけは、個々の事象の特殊性に拘り過ぎることが、他災害で得た知恵を応用する機会をみすみす逃すことにもなり得るからだ。


専門性と不可知


「日本は古来災害から学ぶことにより、レジリエンスの高い社会を築いてきた」
とは、東日本大震災の後、度々言われてきたことだ。しかしここ10年間に繰り返された災害から日本社会が新たな学びを得ているか、といえば、容易には首肯しがたい。その学びを阻んでいるのは、専門性による「縦割り」文化だと私は考えている。


放射線災害におけるベクレルやシーベルト、パンデミックにおける実行再生産数や各種臨床検査など、ある災害を理解するためには時に特殊な専門的知識が必要であることは論を待たない。しかし当然のことながら、難解な専門用語を理解する専門家が社会問題の解決を示せるわけではない。昨今の政策や報道に見られる過度の専門家依存(ここには政策への不満を専門家にぶつける「専門家叩き」も含まれる)は、知識ばかりか思考までをも専門家に依拠しようとする科学主義の表れではないだろうか。


今のパンデミックにおいて多くの人々が感じている「分からなさ」は、本来専門的知識に解決を頼んではならないものだ。今どのように社会混乱を収束させ、医療崩壊を防ぐのか。自分と家族を守るには、いつまで、何を自粛すべきなのか。そこに「正解」が存在しない以上、最先端の専門的知識を導入し、大量の検査を導入したところで問題解決には至らない。これは原発事故の後、いつ避難指示を解除すべきか、人々が何を食べ、どのように暮らせば安心できるのかについて、どれだけ放射線量を測定し、モデルによる予測式を立てても正解を示し得なかったことと同様である。


今こそ、よそ者として


福島の原発事故の後には、このような正解のない問題については専門家と住民が、暮らしの視点で対話を繰り返してきた。不安な住民と専門家との橋渡しに一役買ったのは、医療者、社会学者、教育者など放射線の「専門外」の「よそ者」であった。


今般のパンデミックにおいても、患者や疾病という側面でしか社会と向き合って来なかった医学・疫学分野の専門家だけでは、一般住民と生活や経済についてまで対話することは不可能だろう。そこには専門家と住民を橋渡しする「よそ者」が必要だ。


この9年間、原子力関係者はクライシスコミュニケーションの当事者として、住民との対話の場づくり、コミュニケーション技術、他専門家との協力などにつき多くの知見を得てきたはずである。その学びを今度は局外の「よそ者」として還元する大きなチャンスが、今目前に示されている。


パンデミックという奇禍により露呈された科学主義の弊害は、高度に専門分化した現代社会から脱却するための「奇貨」でもある。原子力分野の方々には今こそこの奇貨を居くべく、専門外の領域に足を踏み入れていただきたいと考えている。




東京慈恵会医科大学・臨床検査医学講座講師 越智 小枝 氏

神奈川県生まれ。東京医科歯科大学医学部医学科卒業後、都内で膠原病内科の診療医として約10年勤務後、2011年イギリス・インペリアルカレッジロンドン公衆衛生大学院に留学。世界保健機関(WHO)、イングランド公衆衛生庁のインターンを経て、13年に福島県相馬市に移住。相馬中央病院内科診療科長を経て2017年より現職。

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