nakajima20130222

── 福島第一原子力発電所事故から2年経ちますが、事故についてどのように見てこられましたか。

中島 防災の観点から申し上げたいと思います。2003年まで、日本原子力研究所にいましたが、1999年にJCOの臨界事故が起きました。直後に対策本部が立ち上がり、そこでどうやって臨界を止めるか等、現場でいろいろと活動しました。
その関係でその後、アメリカやヨーロッパなど海外の防災体制の調査などに国の業務で行きました。その結果「日本も防災対策をきちんとやる必要がある」とレポートし、オフサイトセンター(※)や原子力安全・保安院ができたりと、防災体制の見直しがなされました。


※原子力緊急時に、国、地方公共団体、事業者が一堂に会する施設で原子力施設立地点の近くに置かれている


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提供:中島健氏


そのJCO事故から10年ちょっとで福島の事故が起きました。すぐ収束するかと思いましたら、どんどん被害が大きくなっていきました。そのとき疑問に思ったのは、オフサイトセンターによる情報の集約や発信、SPEEDIの活用、また原子力災害対策用のロボットの起用など、JCO事故を踏まえ用意をしていたことが全く機能していないことでした。
後でわかりましたが、オフサイトセンターは地震により、電源が使えなくなっており、さらに原発からの距離が5キロくらいのところにあったため、数日のうちに放射線量が高くなり、人の常駐が困難な状態となりました。結局60キロくらい離れた福島市の県庁に移りましたが、これが一番残念なことで、オフサイトセンターがきちんと機能していれば、初期の混乱はもう少し何とかなったのではないかと思っています。
特に事故当初は保安院、官邸、東電それぞれが情報を発信していましたが、内容が微妙に違い、どれが本当なのかと言われたりしました。また避難や退避されていた方への情報提供も十分にできませんでした。オフサイトセンターがきちんと機能していれば、本来は全部ケアできる話だったのに残念です。
オフサイトセンターの場所も海外の調査を見ても、10キロから10マイル(約16キロ)くらい離すのが常識ですが、福島は、5キロ以内の発電所の非常に近いところにありました。それには総務省が平成21年に「こんなに発電所に近いと事故が起きた場合、そこに人がいられなくなるのではないか」と勧告(※)していたのです。


※原子力の防災業務に関する行政評価・監視結果に基づく勧告(第二次)、平成21年2月総務省


ロボットについても、最初に福島第一に入ったのは、アメリカのアイロボット社の「パックボット」でした。日本でもJCO事故の後にお金をかけてロボット開発がされていたはずですが、何故それを活かすことができなかったのかと残念でなりません。
今、新しく原子力規制庁ができ、規制委員会による新安全基準の指針が作られようとしています。電力会社も多額のお金をかけて防潮堤をつくったり、電源車を配備したり、人を増やし、訓練を行っています。規制委員会による、新指針の骨子案は最低限のラインで、「今後も見直して改善していく」と言っています。
なお、規制委員会設置にあたり、原子力関係の規則などが見直されましたが、その中の原子力災害特別措置法の改定では「原子炉の専門のことについては専門家がやる。災害対策の長は総理大臣であるが、そこまで口出しはしない」という一文が加えられて、これはよかったなと思いました。




2大事故でシビアアクシデントと「安全文化」の必要性が問われることに


── スリーマイルとチェルノブイリ、過去に起きた2大事故を知ることも重要ですが、どのような事故だったのでしょうか。


中島 1979年の3月、アメリカのスリーマイルアイランド(TMI)原発で事故がありました。これは大きな分類でいうと、冷却材、つまり水が装置のトラブルで抜けてしまった事故です。
本来開けるべき弁を閉めていたというミスや原子炉の中の水位をモニターするような仕組みがなく、結局、水が抜けていき、福島原発のように燃料が溶け始めたのです。燃料は上半分、4割くらい溶けて崩れ落ちましたが、下は残っていました。
圧力容器やその外側の格納容器も健全なまま残っていたため、外部への影響、放射性物質の放出などについてはあまり大きなことにはなりませんでした。ただ、ヨウ素などは一部漏れたため、周りの住民が一時避難することになりました。
それまで、可能性だけは指摘されていた炉心の重大損傷事故、「シビアアクシデント」と言われるものが商業炉として初めて起きた事故です。
TMI事故を契機に、シビアアクシデントの研究が精力的に行われました。日本に多数設置されているPWRの発電所で事故が起きたので、その当時、色々な対策などは実施していますが、残念ながら法改正などの原子力防災に関する規制上の要求が大きく変わるところまではいかなかったようです。
チェルノブイリは、1986年4月26日にウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原発で起きた事故です。黒鉛の大きな塊の中に燃料が入っている黒鉛炉と呼ばれる炉で、日本の発電炉とは異なっており、圧力容器自体がないような原子炉でした。
その原子炉の運転を止める前に低い出力にしておいて急に外部電源を切って、タービンの慣性で電源を供給させることにより、事故対応ができるかどうか試験しようとしたのです。
原子炉の設計と手順の悪さが重なり、試験の途中で炉が勝手に暴走を始めて、出力を制御できず事故に至りました。水蒸気爆発と水素爆発の両方が起きた、と言われています。
燃料の周りの黒鉛は、普通なかなか火はつかないのですが、1回火がつくとなかなか消えないため、煌々と燃え上がって、中の燃料などが燃え上がった空気の流れで上空まで舞い上がり、世界中に放射性物質が飛び散りました。
この事故は要因が複雑ですが、事故の後に言われたのは、「安全文化」の醸成が必要だということでした。「原子力は安全最優先でやる」という考え方が十分ではなかったのです。
また、当時は、国がまだソビエト連邦という時代で、住民への情報の伝達も十分にされていませんでした。事故は夜中に起きましたが、翌日の昼くらいまで避難が開始されませんでした。
そのため、ある地域では福島と異なり、ヨウ素の摂取制限や牛乳など食料の摂取制限が最初のうちほとんどされなかったため、小児甲状腺がんが多く発生している、と報告されています。


── 福島の事故との違いという面ではいかがでしょう。


中島 福島とTMIやチェルノブイリの違いは、福島は自然災害が起因事象だったこと、自然災害だったが故に広域にわたる災害で、福島サイトの中でも複数の炉の事故になってしまったことです。また、外から支援するにしても、地震による被害でアクセスがなかなかできない状況になっていたことは非常に大きな違いですね。
また、チェルノブイリはもともと格納容器がなく、放射性物質が外に出てしまいましたが、福島の場合は本来閉じ込めておくべき圧力容器、格納容器がともに破損したことや複数の炉が同時に壊れてしまったことが非常に大きいと思います。
92年に策定されている「国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)」の評価ではTMIはレベル5で、「広範囲な影響を伴う事故」ですが、実際の放出は限られた外部放出でした。それに対して、チェルノブイリは設定されている最悪のレベル、「深刻な事故」のレベル7で、放射性物質が相当量出ています。
福島は、最初はレベル5と言われていましたが、途中から放出量が非常に大きいということで、レベル7に引き上げられました。ただ、チェルノブイリに比べれば、ヨウ素ではチェルノブイリの約1割、セシウムで約2割の量と考えられています。




評価設定が7段階しかないため、福島とチェルノブイリは同じになった


── 事故評価尺度がチェルノブイリと同じとなると、事故の原因や放出された放射性物質の量に関係なく、同じ程度の事故だったのかと考えてしまいますね。


中島 そうですね。レベルの設定が7段階しかないため、1桁くらいチェルノブイリのほうが放射性物質の放出量は大きいにもかかわらず、同じレベル7の評価となっています。
例えば、福島の10倍、100倍の事故が起こってもレベル7です。そういう意味では、尺度を見直して、もう少し細分化する必要があるかもしれません。また、放射性物質の放出量で見ているところを、被ばくの程度などで見る考え方も出てくるかもしれません。


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提供:中島健氏


TMIで初めてシビアアクシデントが実際に起こる事故だと国際的に認識されて、アメリカでは、シビアアクシデントへの対応ということで、アクシデントマネジメント(過酷事故に備える安全対策)として実際の発電炉に対していろいろ規制などをやり始めていました。日本ではチェルノブイリの後にようやくシビアアクシデント対応をやろうと当時の原子力安全委員会が言っていますが、それは強制的ではなく、「事業者の自主的な努力で行ってください」ということでした。
福島の事故では、それが役に立ったことは立ったのですが、もし強制的に改善の規制を行っていれば、例えばベント(格納容器内の排気)などの対応ももう少しうまくできたのかな、と思います。


── 福島の事故で得られた教訓とは。


福島事故の講演をしてくれと言われたときに教訓として話すことは、やはり「本当に事故は起こるもの」として訓練や準備がされていなかったことが一番大きいのでは、ということです。
事故の後から言うのは簡単ですが、ベント弁もアメリカでは人が近づいて手で開けられるように大きなレバーが付いていますが、日本では真っ暗な中を懐中電灯を持って図面を見ながら何番のバルブと言いながら一所懸命やっていたということで、事故が本当に起きたときのことを考えていなかったのですね。
津波対応でも、事前の評価では福島第一は、5.8メートルだったそうです。それで10メートルの津波対策をして、それ以上のことはやっていなかったそうです。それは当時の知見としては仕方がないかもしれませんが、そこで留まっていたところが残念で、「これを越えてきたらどうなるのか」と少しでも考えていたら、事態は変わっていたと思います。
実際、福島第一では6号機の空冷式のディーゼル1台だけが動いていたおかげで5・6号機は難を逃れられた。ほんの少しの工夫があれば助かったのです。
福島第一とは反対の例として東北電力の女川原発がよく出されます。過去の三陸津波の経験を踏まえ、14.8メートルの高台に建設していたおかげで、発電所が女川町で被災した人の逃げ込む場所になったのです。女川の人にとっては「原発があってよかった」という結果になりました。
こうしたことは研究者側の反省も必要ですが、今までは物が壊れたらどうなるかという内部事象によるリスク評価ばかりをやっていて、今回のように津波という外部事象により一度に全部が急にダメになるという発想は出てきませんでした。非常用発電機も「十分信頼性のあるものが2台あれば、どちらかは大丈夫でしょう」と。ところが、今回は13台のうち12台が使えなくなりました。共通要因事象と言いますが、津波という一つの事象で全部がダメになってしまいました。
そこは非常に反省すべき点で、原子力学会でも自然災害などの外部事象によるリスクの検討が行われています。


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提供:中島健氏




結局、安全の確保の最後は人だ


中島 私は新潟県の技術委員をやっています。少し前に、柏崎刈羽原発の対応も見てきましたが、消防自動車や電源車がいっぱい並んでいますし、防潮堤も高いものを幅1キロにわたってつくるということで一生懸命対策をしていました。
ただ、例えば防潮堤にしても、高いものをつくっても、それを越えたときにどうなるかを福島の反省から考えておかなくてはいけない。切りがなくなってしまうとは思いますが、わかる範囲では対応しておく必要があると思います。
ただ、そのためには維持管理をする人員とお金がすごくかかるようになるところが心配ではあります。
当然ながら人がたくさん必要なわけですが、福島の事故によって原子力をやろうという人が減ってきています。私のところは研究所なので、大学院生しか受け持っていませんが、他の大学で特に原子力、原子力安全と掲げている大学では、今後、学生が定員を割るのではないかとか、いろいろ心配されています。
結局、安全の確保は、最後は人だと思います。「これはおれの発電所だ。おれが守る」というような人、福島第一の所長の吉田さんのような人がいないとダメで、志を高くもってやってくれる人がこれからも続いていかなくては、と思いますね。


── 人材を確保しながらも、日頃から訓練と対策を持続的にやっていかなければいけないのですね。


中島 アメリカに調査に行ったときに言われたのは、「危機管理で一番大事なのは訓練です」ということです。「プラクティス、プラクティス、プラクティス」と3回繰り返し、「その中でも一番大事なものは何かというと、意思決定者を訓練しなさい」と言われました。
訓練をきちんとやると、「今のままでいいか」という反省が当然出てきます。その反省をフィードバックしていくと、だんだん良くなっていくはずです。日本は一度、規制や規則をつくると、それに従ってやることだけを一生懸命やるのですね。そのため、結局うまくフィードバックがかからないのではないかと思います。
今、規制委員会が取り組んでいる新しい防災指針の考え方では、例えば水がなくなった、温度がこれだけ上がったなど、原子炉の状態を見て、「ここまでの人はヨウ素剤を飲みなさい」「ここからはすぐに逃げなさい」「屋内に退避していなさい」など、決めることにしました。
しかし、そのシナリオどおりの事故が起きれば、非常に良い結果は得られると思いますが、大概は考えていないようなところから考えていないようなことが起きるのです。それが事故ですから、指針の運用にあたっては、「本当に起こったらどうなるか」を常に考えて対応を用意しておくことを訓練としてやっておかなければならないと思います。
また、規制する側の人間の養成もきちんとやることが非常に大事だと思いますね。
我々大学としても人材育成などの面でお役に立てるなら、いろいろ取り組んでいきたいと思っています。


 

(2013年2月22日)

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